El librero la Fontana

El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚「人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ 」(アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

ナイトホークス(上・下)

ハリー・ボッシュ シリーズ(1)

ボッシュ・シリーズを適度なペースで読んでいこうと考えシリーズの第一作「The Black Echo」(日本語タイトルは「ナイトホークス」)全600ページ超の文庫本を二日ほどで読んだ。

ボッシュ、エレノア、エドガー、アーヴィンなどなどTVシリーズでおなじみの名前が出てくるが人物造形はボッシュ以外はかなりちがう。そこで、また別物として楽しむことができる。一方で、ボッシュの高台の家、ジャズ、ヒエロニムス・ボスやE・ホッパーの絵などボッシュのライフスタイルはTVよりも書き込まれているので、そちらを知る楽しみはある。

筋書きを追うのはやめて、TVシリーズのどこに生かされているのかをメモっておこう。

  • ボッシュのベトナム従軍→TVでは湾岸戦争
  • エレノアFBI捜査官→TVではボッシュの元妻でFBIは別の理由でクビに
  • 帰還兵集団の犯罪→TVではシーズン3のイラク・アフガニスタン帰還兵としてリメイク
  • FBI捜査官の犯罪→TVではシーズン6の黒幕がFBI捜査官
  • アーヴィング→TVでの造形は権力志向ではあるものの善人

発表は1992年。ポケベルが重要な役割。若い読者にはわかるかな・・

続・私の本棚 (4)日本のコロナ対策は正しい?

還暦過ぎの元外科医ホンタナが、医学知識のアップデートに役立つ一般向け書籍をセレクトし、テーマごとに同世代の医師に紹介するブックレビューのセカンドシーズン「続私の本棚・還暦すぎたら一般書で最新医学」です。

第4回のテーマは「新型コロナの社会学」です。(ちなみにファースト・シーズン「私の本棚・還暦すぎたら一般書で最新医学を」はこちら

COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のワクチン接種が本格化してきました。一年以上たって、新型コロナウイルスそのものやその治療といった医学的なことよりも、実感としては飲食業界の営業自粛や医療への受診ひかえ、ワクチンの供給体制といった社会的な問題のほうがリアリティをもって迫ってくるようになりました。

そこで今回はCOVID-19そのものではなく、それが引き起こす社会の変化、いわば「感染症社会学」を読み解いてみました。

感染症と金と利権の黒歴史を描いた1冊

最初の本「ドキュメント 感染症利権」は「感染症を利用して利権や利益が生み出される」というブラックなテーマ。COVID-19に限らず、医療・衛生の日本近代史もすっきり理解できる一冊です。

COVID-19によってグローバリズムの中で外国から持ち込まれる感染症への対応の難しさもクローズアップされました。日本における最初のグローバリズムといえば、幕末の開国と明治維新。幕末の開国は感染症に対する開国でもありました。

コレラが長崎から上陸し幕末明治に大流行、西南戦争では戦死者よりも病死者が多いほどで、そこから公衆衛生という思想が生まれたとも言えます。

この時活躍するのが日本の衛生行政を確立した後藤新平、そして世界的細菌学者となった北里柴三郎というヒーローたち。この頃は細菌発見の時代でもあり、北里VS東大閥、内務省VS文部省、コッホVSパスツールなどの複雑なライバル関係がありました。

ところが明治の官僚や軍隊が制度的に安定してくると、文部省―東大閥―陸軍という国家権威はそうした個人のヒーローを排除し、官僚と学閥と軍が衛生行政も医学も支配していくようになります。森鴎外森林太郎)も権威の側にありました。

日本の医学部に特徴的な権威主義的医局制度の源泉もこの頃にあります。「医局講座制は効率よく医学を浸透させるメリットを持つが、結果的に閉鎖的で家父長主義に染まった医師集団を生んだ」(本書104ページ)、その通りですね。

20世紀になるとスペイン風邪がCOVID-19と同じ光景を産み出していることに驚かされます。この時も、安倍政権が布マスクを配布した、いわゆる「アベノマスク」と同じように、マスク配布が実施されていました。

軍制に取り込まれた医学が生み出したのが、軍医石井史郎率いる「悪魔の飽食」細菌戦の731部隊です。この部隊が主導して陸軍軍医学校防疫研究室や戦地の防疫給水部が一体となった「石井機関」が、細菌戦のための人体実験を実行。細菌戦は大した実効性もなく敗戦を迎えましたが、恐ろしいことに米軍との関係で免罪を得た石井機関の幹部は一転して戦後の公衆衛生の担い手になっていきます。

今の国立感染症研究所は元予防衛生研究所であり石井機関出身者が要職を占めていました。国立国際医療研究センター(新宿)も国立がん研究センターも、元をたどれば軍関連の施設です。

病院関係だけでなく製薬会社や民間の研究所など医療ビジネス界にも元731部隊関係者が多数流れ込んでおり、いかに石井機関が医学・公衆衛生分野のエリートを集めていたかがわかります。

この戦後の復権で重要な役割を果たしたのが731部隊で石井の片腕だった内藤良一です。内藤は血液産業に目を付け、日本ブラッドバンク(のちのミドリ十字)を設立して戦後の売血大国日本を作り出し、それが肝炎ウイルスの蔓延を引き起こしました。さらに売血の中止と引き換えに血液製剤の販売権を得たことが後の血液製剤によるエイズ禍へと、負の連鎖は続くことになります。

医学の利権化の極めつけはアメリカのバイ・ドール法(1980年)でした。教育・研究機関が科学的成果の特許権(=占有権)を持つことを認めたこの法律のために、研究機関は産業構造に取り込まれ、薬剤利権の下請け状態になったのです。本庶先生もオプジーボで小野薬品ともめていました。そしてCOVID-19の今、ワクチン開発も利権が深く関わっています。

こうした近代の一連の流れを見ると、パンデミックはお金になるという側面はたしかにあります。湯水のごとく税金を投入しても文句を言えない。本書は感染症にからむ政治・利権・金の動きをコンパクトにまとめ読み応えのある一冊に仕上がっています。以前取り上げた「ゴッドドクター 徳田虎雄」を書いた山岡淳一郎氏の筆力に再び唸らされました。

あながち間違っていない?日本のコロナ対策

2冊目は医師でもあり、医療哲学者でもある美馬達哉氏の「感染症社会 アフターコロナの生政治」です。

生政治(せいせいじ=Biopolitics)とはミシェル・フーコーが作った概念。本来、立法と行政と司法という枠組みの中で行われるべき政治が、ある種の危機の中で、そうした枠組みをはずれて、国民を個々の人格としてではなく、生命の集合体(Bio)として扱い、効率的な管理の対象として従属させようとすること。

これが極端になると個人よりも集合体としての利益追求ということになり、ファシズム共産主義にもつながるんですね。

つまり、個々の患者の治療が生物医学的(Biomedicine)であることに対して、政治が社会の規範、倫理を介して、集団としての国民の健康問題に介入することはBiopoliticsとしてとらえます。

COVID-19で考えれば、コロナ病床で実際に行われているのがBiomedicineであり、政府や専門家会議が感染者データなどを基にして国民生活にある種の超法規的な制限を加えている現状はBiopoliticsというわけです。1年以上続くCOVID-19の感染をBiopoliticsから捉えてみて初めて納得できることは多いです。

COVID-19の蔓延を防ぐために人流の抑制など公衆衛生的な手法(非製薬的介入 =Non Pharmaceutical Intervention:NPI )が延々と続けられているわけですが、NPIの基本的戦略は「集団免疫の獲得に必要なトータルの感染者数に到達するという長期的な目標を前提として、短期的な感染ピークが医療のキャパシティを超えないようにする」ことです。

つまりNPIの第一の目的はトータルの感染者数を減らすことではなく感染者の増加速度をなだらかにし、それによってピーク時の病院の混乱や医療崩壊を避けるということです。一方で、NPIによる負の側面、人流の抑制で生業がなりたたなくなる、個人の権利や自由が侵されるということは当然あります。

そこで現実的なBiopoliticsとしては、NPIのアクセルをふむこと(=非常事態宣言など)で医療崩壊を防ぎ、死者数を増やさないようにじわりじわりと集団免疫を目指すと同時にブレーキをふむこと(=非常事態宣言の解除など)で人々の生活が成り立つようにすることになります。

この全体図が腑に落ちれば、日本政府や自治体のやっていることも、一見場当たり的に見えますが、あながち間違ってはいないことがわかります。NPIとは元来そうしたものなのです。

この本が出版されたのは2020年5月なのでワクチンの要素が入っていません。そこにワクチンという要素が加われば、集団免疫の早期達成によるNPIの早期終了が期待できます。

本書の著者の論点はこうしたNPIの解説ではなく、「皆さん、現下のCOVID-19で強化された政府のBiopoliticsに馴致してしまわないようにしましょうね」ということだと思うのですが、私はNPIのメカニズムを再認識することで、政府の対応への理解が深まりすっきりしました。そういう基本的なところをきちんと書いてくれている本として貴重です。

 最近の若者像を通して――アフターコロナの希望

3冊目は、アフターコロナ時代の若者像を描く「若者たちのニューノーマル」です。最近の新社会人は「Z(ゼット)世代」なんだそうです。「Z世代」とはゆとり世代(1987~1995年生まれ)の後の世代のことで、1996年以後に生まれた世代を指します。最近、耳にすることが増えてきました。

この本は「Z世代」という世代論を超えて、アフターコロナの時代に向けた希望も感じさせてくれる不思議な魅力も持っています。

前半は小説風フィクションで、49歳の父親と21歳の息子が肉体だけ入れ替わる(「転校生」や「君の名は。」でおなじみの手法)という設定です。父親が息子になりすましてZ世代の日々を体験します。

Z世代はスマホ・ネイティブ、SNSネイティブという、いわばデジタル革命の申し子世代であり、それ以前の世代の延長線上ではうまく捉えきれないところがあるのです。ところがこのフィクションを読むことで私もZ世代の感覚を疑似体験できました。

そこでわかるのは、まさにコロナ禍の中での若者インタビューを通して著者が感じた最大のポイントは「いま社会で求められていることは、Z世代がコロナ前から求めてきたことだ!」ということです。

印象的な部分を引用します――(309~310ページから引用)


 富よりも「人間らしい生き方」を追い求め、自分や家族、周りの友人・知人の健康と幸せを願う。あるいは、経過より結果を意識しながら生き、働く。業務や健康管理を数値で「見える化」し、中長期的なコスパを実現しようとする。

 動画やSNS、オンラインを効率的に使いこなし、いつでもどこでも誰とでも、既存の枠を超えてグローバルにつながれる環境を創りあげる…。(中略)コロナ禍ですっかり一般化した、テレワークや副業解禁、人材シェアリング、ジョブ型雇用なども、以前から「本腰を入れて、取り組まないと」と、繰り返し求められてきたことでした。(中略)にもかかわらず、私も含め大人たちは「まだもう少し、先のこと」だと思っていました。

 Z世代が、これほど身近で「もう時代は変わったんです」「僕たちが人間らしい生き方を標榜するのは、決して『小さくまとまっているから』でも、『欲がなさすぎるから』でもないんですよ」と、ニューノーマルな価値観を発信し続けていたにもかかわらず、です。――(引用終わり)。

 

コロナ危機、早く収束して以前の社会に戻りたい…と思っている人も多いと思いますが、コロナ直前の日本って少子高齢化や巨額の財政赤字で煮詰まっていたじゃないですか。そんな社会の閉塞感を一番感じていたのが、そこにこれから放り出されるZ世代だったのです。

ところがコロナ対策ということで、テレワークやオンライン授業、企業や人の地方移転といった多くの変化がコロナ以前では考えられないスピードで進行しています。そして社会はもうもとには戻らずこの変化の行きつく先が新しい社会の標準(ニューノーマル)になっていく、そんなZ世代的未来図が現実的になってきました。

さらに巨視的に見ればZ世代に限らず日本社会にとっても、コロナ禍を克服することが煮詰まった日本社会を打開し、次の時代を迎えるためのきっかけになるかもしれない――そう考えると、コロナ禍でもいくらか明るい希望が持てます。

 

まとめと次回予告

 中世のペスト大流行ではヨーロッパで2000万人から3000万人が、全世界でおよそ1億人が死亡したと推定されています。しかし、この破壊が人口の構成と分布を変え、教会のような権威を失墜させ、古い仕組みが機能しないことをさらけ出し、ルネサンスにつながりました。

 コロナ禍も次の世界への地ならしになるのではないでしょうか。アフターコロナの時代になった時、そこに現れるニューノーマルにはZ世代だけでなく昭和や平成を生きてきたわれわれも価値観を大きく変える必要があるでしょう

 さて次回のテーマは「最近の統計学」です。医学を含めた多くの意思決定の場面で、経験やカンの時代から「統計的根拠」の時代になろうとしています。そんな動きを「データ分析の力 因果関係に迫る思考法」・「統計分布を知れば世界が分かる」・「RCT大全」の3冊から読み解いてみたいと思います。

 次回もご期待ください。

終決者たち(上・下)

ハリー・ボッシュ シリーズ (11) そこはプリペイド携帯でしょ!

 

Amazon PrimeのBOSCHシリーズが完結し、再度、全シーズン通しで見てしまった。それでも、もっとボッシュの世界に浸りたいと手近で入手できた「The Closers」(終決者たち)を土日で読んでみた。未解決事件と警察内権力闘争がからみあって、未解決事件は解決するのだが、その解決そのものも権力闘争の道具に使われる。

本作は、全ラインナップの中では中盤、⑧「シティ・オブ・ボーンズ」で一度LAPDを退職して私立探偵として⑨「暗く聖なる夜」⑩「天使と罪の街」と二つの事件を解決したボッシュが退職者雇用制度で再びLAPDにもどったところからのスタート。

プロット自体は、真相とは少しずれたところをボッシュが追及し捜査が暗礁に乗り上げたところで意外な気づきから謎が解ける。しかし、解決のキーになった携帯電話。そんなアシがつきかねない他人の携帯を犯人が使うのはかなりご都合主義的では・・・。まあ、読んでいる間は楽しめるし、謎解きだけがボッシュでもないのだが。

この後のながれとしては、コナリーの別シリーズとして「リンカーン弁護士」がスタートするが、これにはすぐにボッシュがからみはじめるようだ。

潮風のむこうには―平生釟三郎と住吉村の人々

 旧住吉村住人の必読書

「住吉村の人々」ってだれ?と思うかもしれないが、現在の地名では兵庫県神戸市東灘区住吉本町住吉東町住吉宮町あたり。合併して神戸市東灘区の一部となるまでは住吉村でした。住吉村は大阪と神戸(三宮)の中間ということで関西財界の重鎮が続々と宅地開発して居を構えた時代があり「日本一の富豪村」と呼ばれたことも。

住吉といえば、「コープこうべ」(いわゆるコープ発祥の地)、「住吉学園」(実体がわかりにくいが、この本を読めばわかる)、「灘中・灘高」「甲南学園」などなど、富豪や起業家が多く住んでいたことや、江戸以来の酒造りや菜種油(住吉川の水車で絞る)での利潤が豊富だったことから、ユニークな組織や学校がある。そして私のような、他所から転入してきたものもそれらの恩恵を受けている。引っ越してきて初めてわかる住吉の良さ。

その「住吉のユニークさ」が実現するまでには多くの先人が関わっているのだが、本書はその一人、創成期の東京海上の重鎮でもあり、甲南学園をはじめ住吉の多くのことの発端を作った人、平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)をメインに据えた物語。

平生釟三郎の事績を調査する地元の学生や歴史好きのディスカッションのパートと平生釟三郎の評伝が交互に並べられて読みやすい。なにより、住吉のことがよくわかる。住吉の住民必携でしょう。

Amazonでは品切れとなっているが、住吉駅の書店にはありますよ。

誰がために医師はいる

依存症のむこうにあるもの

薬物依存症治療の第一人者、松本俊彦氏による精神医学エッセイ。薬物依存治療をメインにしながら、現代の精神医学全体を俯瞰しつつ、出自から現時点までの自分史をも語ってくれる、中身も濃いが文章も上手であっという間に読んでしまった。

松本氏は小田原の高校から佐賀医大というちょっと変わった経歴の1967年生まれ。冒頭の小田原での荒れた中学時代の話にすでに友人のシンナー中毒がでてくる。なるほど、薬物依存を専門としていなくても、人生の中で「ああ、あの人は〇〇依存だったよな」ということは確かにありますね。

 松本氏はいろいろな経緯があって精神科医としては不本意ながらも薬物依存の治療にはまっていく。何度か語られる大きな気づきが「依存は、それによって得られる快感のために依存に陥るのではない」ということ。ではなぜ依存に、それは「過去や現在のトラウマ・生きにくさ(精神的の場合も肉体的な場合もある)から逃避する手段として何かに依存する」ということなのだ。「唐辛子を山盛りふりかける行為」・・わかる気がする。松本氏自身もアルファロメオの改造にのめりこむ行為依存になったりしている。「依存とは欠落の補填」と考えれば、依存を抑制するまえに欠落が何かを考え、そこを是正していかなくてはならない。

依存症患者の自殺例がいくつか取り上げられおり、それぞれに強い印象を残す。小田原に住んだことのある私にとっては、「小田原城からの飛び降り自殺」がもっとも印象的だった。自殺後の心理学的剖検の話や巨大橋梁の自殺対策など、しられざる精神医療の世界を垣間見ることができる。次回の診察予約をとること自体に治療的な意味があり、予約の有無こそが生ける人と死せる人とを隔てるものだ。・・・なるほど

 メキシコの大麻、ペルーのコカ、中国のアヘンなど、どの民族どの文化にもそれぞれお気に入りの薬物があり、その薬物を上手に使いながらコミュニティを維持してきた。この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけだ。「悪い使い方」をする人は、必ず薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。だから依存症をみたらその困りごとを発見しなくてはならないということ。

 もう一つ、薬物自己使用者の再犯防止には、刑罰が有効でないどころか、かえって妨げになっているということ。タレントやミュージシャンなどが覚醒剤中毒で検挙されたときのマスコミ総がかりのバッシングの異様さは確かに感じる。バッシングしたからとて、拘留されたからとて、依存の根本原因である困りごと悩み事を解決しなければどうにもならない。そういう意味では、「ダメ。ゼッタイ。」や「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」なんて標語や恐ろしさだけを説く学校での薬物乱用防止教室はかえって良くない結果を引き起こすとも。

 後半では、2000年代以降の精神医療の問題点をえぐります。駅前メンタルクリニックの急増、ドリフ外来(めしくってるか、寝てるか)、ベンゾ依存症を生み出す医師の処方などなど取り上げ、精神科医は白衣を着た売人とまで書く。そして最後の章では、薬物依存からアル中への遷移の問題も・・・ストロング系チューハイの危険さ。

 では、どうやって治療していくのか。最終章で、自助グループのメンバーを通して語られるが、それはやはり人と人のつながりということなのだろう。アディクションの反対語はコネクション(つながり)。I and Youではなくて I and I=(レゲエでいうところのアヤナイ)・・と、最後は煙にまかれた感じもするが、それも含めて依存症治療ということなのだろうと。

-------------------------------------------------------------

(以下はメモ)

薬物依存症治療の第一人者、松本俊彦氏が「みすず」に連載していた精神医学エッセイをまとめたもの。松本氏は小田原高校から佐賀医大という私と微妙にすれ違う経歴の10歳年下、1967年生まれ。

目次に沿って

  • 「再会」――なぜ私はアディクション臨床にハマったのか・・出自、小田原
  • 「浮き輪」を投げる人・・クスリはどう悪いかではなく、クスリをやめる方法
  • 生きのびるための不健康・・依存は快感のためではなく、不快(トラウマ体験の記憶)からの逃避のため。唐辛子を山盛りふりかける行為(ある人を思い出す)
  • 神話を乗り越えて・・瞬殺精神療法「夜眠れているか、飯食っているか、歯を磨いたか―また来週」。少年矯正の世界→解離性同一性障害
  • アルファロメオ狂騒曲・・改造と自傷 心に改造すべきものは
  • 失われた時間を求めて・・小田原城からの飛び降り自殺。心理学的剖検。巨大橋梁の自殺対策。次回の診察予約をとること自体に治療的な意味があり、予約の有無こそが生ける人と死せる人とを隔てるものだ。
  • カフェイン・カンタータ・・ルーティンをこなすための覚醒剤。薬物と規制。どの民族、どの文化にもそれぞれお気に入りの薬物があり、その薬物を上手に使いながらコミュニティを維持してきた。メキシコー大麻、ペルーーコカ、中国ーアヘン。エナジードリンクとカフェイン錠剤―カフェイン中毒。この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけだ。「悪い使い方」をする人は、必ず薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。
  • ダメ。ゼッタイ。」によって失われたもの・・薬物自己使用者の再犯防止には、刑罰が有効でないどころか、かえって妨げになっている。NHKでの経験。「それとも人間やめますか」学校での薬物乱用防止教室「ダメ。ゼッタイ
  • 泣き言と戯言と寝言・・精神科医までのみち。脳炎の女性。
  • 医師はなぜ処方してしまうのか・・ドリフ外来。ベンゾ依存症 苦痛の緩和を求めて依存に。2000年以降の問題。SSRIメンタルクリニックと新型うつ ベンゾ依存。精神科医は白衣を着た売人。メディケードのベンゾ騒動
  • 人はなぜ酔いを求めるのか・・脱法ハーブからストロング系。アディクションの反対語はコネクション(つながり)。アヤナイ

参考文献

NHK 100分 de 名著 ボーヴォワール『老い』

死への漸近線としての「老い」

日本版ボーヴォワール上野千鶴子ボーヴォワールの「老い」を読み解く。原著そのものの日本語版は上下で7000円もするので、テレビを見てこのガイドブックで読んだつもりに。

老いは死への漸近線であり、老いても死を理解することなどできはしない。西部邁のように自裁することはやはり邪道だろう。漸近線上を生きていき、老いていく自分をみつめる・・・それが終盤の人生ということか。答えのないテーマであり、各々が生きてみなくちゃわからないということでもある。

またいつか歩きたい町

 魅かれるけど、本当のところはただの田舎・・・?

紹介されていた中で行ってみたい町なみは

城端富山県)・石見銀山島根県)・内子(愛媛県

行ったことがある町なみ・・・新潟・信濃追分・塩屋・尾道・八女・臼杵での記憶から考えると・・結局のところ田舎は田舎でしかなくて、その田舎の中に小さな愉しみもあるけれど、その愉しみはそこに出かけなくても工夫次第では自分の住んでいる周りの世界でも得られるような気がする。いや、そうであるべき。そうでないとしたら、出かけていないときの日常が寂しすぎる。

自分が失ってしまったノスタルジーを田舎の町並みの中に見つけるのはいいけど、行った時の田舎の面倒くさい感じが先行してしまう。まあ、こんな感慨を抱いてしまうのは歳をとってしまったからかもしれないが・・・。と、いいながらも出かけてみますか