El librero la Fontana・ホンタナ氏の本棚

人生の最後を一番美しく過ごすのは、いつの日か、田舎、といっても町からあまり離れていないところに隠居し、今までに愛読した何冊かの本を、もう一度、書き込みなどしながら読み返すことだ。           (アンドレ・モーロワ「私の生活技術」より)

正義の弧(上・下)

ハリー・ボッシュ シリーズ最新刊に歳月を感じる

姪の結婚式で石垣島へ。その旅路に読み始め没頭

「BOSCH:ボッシュ」シリーズは第一作「ナイト・ホークス」原著刊行が1992年1月、コナリー35歳、ボッシュは1950年生まれの設定で当時40代前半、訳者の古沢氏は34歳、読者の私は35歳。つまり、作者も訳者も読者もほぼ同年代で少し年上のボッシュの活躍を追いかけてきたわけだ。ボッシュも70代、膝は手術をしたようだし、この巻では白血病であることもわかった。ボッシュの30年をこの3年でずっと読み続けてきたことになる。ついに未読のボッシュはなくなってしまった。

ここ最近は、DNAを中心とした新しい捜査方法で古い未解決事件が解決するというパターンが多いが、そんなケースでも結局はボッシュの(そしてバラードの)勘や正義感なしでは物語は動いていかないわけで、結局は「人」なんだなと、あらためて思う。

 

テスカトリポカ

ナルコス+アステカ+臓器売買

メキシコ麻薬戦争+世界のナルコス(=ドラッグ・マーケット)、そこに関わる日本人、そんな群像をフィクションで読む。フィクションながら、いやフィクションだからこそ、以前読んだドキュメンタリー「ナルコスの戦後史」↓をよりリアルに感じられる。

そこに、ラテンアメリカ特有の征服民・被征服民という構造がからんで、アステカの怨念が混乱する社会を作り出していく。実際問題として、人種間の混淆がすすむラテンアメリカにおける人種問題は、日本人には想像がつかない。

と、聴いていたら舞台は日本へ。メキシコを逃れて流れ着いた女性が産んだ混血のコシモとメキシコ麻薬戦争で敗北を喫して脱出してきた男が日本で出会う。その出会いには東南アジアにおける臓器売買というブラックビジネスが関わっている。

臓器売買における「心臓」と、アステカのいけにえの「心臓」を捧げるところがシンクロする。と、まあ、荒唐無稽にはなっていくものの、裏社会のビジネス繁栄のうらに滅亡したアステカの呪いを重ね合わせてつきすすむクライム・エンターテインメント。

南米の征服された民族のうらみつらみが現代社会に犯罪として吹き出ている、というアイデアは初めてきいたが、そういう説があるのかないのか・・・・。(直木賞受賞作)

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者

Prudentでないこと

アカデミー賞を獲得した映画「オッペンハイマー」を近日中に鑑賞予定。あえて、この映画の原作ではなく、日本人(九州大学出身の物理学者・著述家)が書いた評伝を読んでみた。オッペンハイマーの頭の回転の良さと、prudentでないこと(無邪気さ)の組み合わせがくっきりと描かれており、人生においてprudentでないことの良し悪しを考えさせられる。

Prudent=いい意味では慎重で思慮深いさま、であるが、ここでは「世知に長けていること」「計算高いこと」。オッペンハイマー自身はprudentでないことが美徳であると考えていたように読める。

世間のprudentに充ち満ちた政治家や科学者との関わりの中で、pure?naive?なオッペンハイマーが、原爆を作り、広島・長崎に落とすことを阻止もできず、結局は核に充ち満ちた今の地球を生み出したことの皮肉。

それにしても終戦の一カ月前にやっと実験に成功して、そのすぐあとにボロボロの日本に2発も落とす必要性はどう考えてもなかった。特に、2発目はプルトニウム型を実験したとしか思えない。

日本人としては、そこまでがすべてで、その後の水爆反対やレッド・パージは正直どうであろうと、許せないことに変わりはない。のほほんと映画を見に行っていいものか少し迷う。無邪気な科学者でも結果責任から逃れることはできない。

オッペンハイマーは巧妙な人間操縦の手腕をふるったのではなかった。オッペンハイマーの武器は、迅速果敢、的確無比の理解力であり、おどろくべき記憶力であり、絶えず議論を最も重要な地点に押し戻し集中する確かな感覚であった。そして、他人の窮極的な善意を信じるオッペンハイマーのナイーヴさが、他人を操作する術策に代わる薬を見事に果たすのを、サーバーは新鮮な驚きをもって見守った。(P182)

人間の心には、誤解、無知、愚昧、傲慢が幅をきかしうること、これはロバート(=オッペンハイマー)も理解したが、窮極的な邪悪さの存在は信じなかった。しかし、この世には邪悪が確かに存在する。ロバート・オッペンハイマーは、その事実をしたたかに学んでから世を去ったはずである。(P183)

シカゴの物理学者たちが示した軍人に対する警戒心と敵意を、オッペンハイマーはなぜ示さないのか。それは思想の問題ではなく、少年のように不用心な他人への信頼感から出ていることをグローヴスは感知した。(P189)

原爆地獄への想像力が書けていた。そして、それが人間というものである、と私は考える。人間は想像力の欠如によって、容易にモンスターとなる。(P195)

広島からの記録フィルムを見て初めておのれの罪業をさとった愚者であったとしたら、私たちの無罪性も、それと共に揺らぎはしないのか。(P212)

youtu.be

族長の秋

<マジック・リアリズム >4月は「族長の秋」

ラテンアメリカ文学のひとつの分野として確かにある「独裁者小説」。それをガルシア=マルケスが書くとこうなる。独裁が達成されるまでのことはほとんど書かれておらず、その独裁のマイナスの面がたくさんあって、それが結局は独裁者の末期(まつご)に関わってくる、独裁とは結局割に合わない。心の平穏を得られない、ということはよくわかる。

とはいえ、時間軸や話者は誰なのかなどが、はぐらかすようにずらして書かれているので、そこはかなりマジック・リアリズム的。その混沌感がガルシア=マルケス的なのかもしれない。個人的にはバルガス=リョサが描く独裁者「チボの狂宴」のわかりやすささを推したい。

女ぎらい ニッポンのミソジニー

日本で正しくフラットに生きて行くためにはミソジニーからの脱出が必要

<読書中>日本人の男はほとんどが「女ぎらい」の「女体ずき」・・・うーん、身もふたもないお言葉。そこから脱出してどうしたらフラットな関係を築けるのか!?

八ヶ岳南麓から

なかなかオシャレな大人の絵本

「フェミニズム」「おひとりさまの老後」で著名な元東大教授の上野千鶴子さん。雰囲気をガラリと変えて彼女が20数年をかけて築き上げてきた八ヶ岳南麓での暮らしを短いエッセイ24本にまとめました。24編それぞれに山口はるみさんのイラストがついて、装丁も紙質もオシャレに仕上がっています。大切に少しずつ読みたくなる。

東京脱出の2拠点生活から完全移住、そんなプロセスの予習にもなりますね。八ヶ岳南麓はブームでもあるらしく、定年後に移住する人も多いようです。そんな移住者も歳をとれば「おふたりさま」が「おひとりさま」になり、最期を迎える時がくる。上野先生ですから、もちろんその話題も書かれています。

移住してきたリタイア医師や看護師がコミュニティの中で診療所や訪問介護のしくみを作っていくという話は「なるほど」と。

ぼく自身は神戸に移住してきて、環境としてやや都会的ではありますが、リタイア医師が移住先で高齢者医療・介護に携わるという意味では、八ヶ岳南麓の医師と近いかもしれません。まあ、人間相手ですから都会的な世知辛い部分もありますが、たぶん八ヶ岳南麓でもそれはおなじでしょうね。